26年前の記憶
- 2021年1月17日
- 日常
6,434人の尊い命が失われた阪神・淡路大震災から、今日で26年が経ちました。
あの日の朝のことは今でも鮮明に覚えています。
地震が起きたのは、当時兵庫医科大学の6回生だった私たちの卒業総合試験の当日のことでした。
阪神香櫨園駅近くのマンションで一人暮らしをしていた私は、友人からFAXで送られてくる「この問題が出るらしいで!」「〇〇先生から聞いてきた!」といった怪しげな直前情報(今思えばほぼフェイクニュース)に一応は目を通しておこうかと思い立ち、朝5時に目覚ましを鳴らして机に向かっていました。
突然のドドドドドっという轟音と共に強烈な縦揺れを感じたとたん、停電で一瞬のうちに暗闇になり、窓ガラスがバリバリと恐ろしい音を立て、部屋が丸ごとすべて押しつぶされるようなとてつもない衝撃。
日が昇って部屋が明るくなってから分かったのですが、勉強机の真後ろに置いていた大きく重たいタンスが、机の真上に倒れていました。キャスター付きの椅子に座っていたおかげで横揺れの際に位置がずれ、タンスの下敷きにならずに奇跡的に無傷で命拾いしたのです。
家具による圧死や負傷が相次いだ大震災の中で、何となく先に病死した兄に守られたような気がしました。
外に出てみると、直ぐ近くで道路が割れ、高速道路が落ち、車が押し潰され、周りにあった木造住宅が倒壊していました。
頭は意外に冷静で、とにかくとんでもないことが起こったのはすぐに理解できたのですが、今のようにスマホなど無い時代でしたので、いったいどこが震源地なのか?被害の規模がどの程度なのか?離れて住んでいる親や友人が無事なのかもすぐには分かりません。車のラジオを付けて、どうやら淡路島が震源地であることを知りました。
薄暗い中、夢中で2階の床が抜け落ちて負傷した近所の人を避難所までおんぶで運んだり、連絡が取れた友人を車で助けに行ったり、水や食料の確保に走ったり、ぐちゃぐちゃになった部屋を片付けているうちに1日が過ぎました。
翌日には甲子園〜梅田間で阪神電車が復旧していることを知り、実家のある大阪に非難するべく歩いて甲子園駅まで向かいました。その時に目にしたのが、後のニュースでも度々取り上げられることになる「奇跡のバス」です。そう、倒壊した阪神高速から前輪がはみ出た状態で辛うじて落ちずに踏みとどまったあのバスです。
復興してすべてが変わった今となっては想像できませんが、あの出来事があったのは今のひだ胃腸内視鏡クリニックから目と鼻の先の場所だったのです。
そして、ボロボロの格好で電車に乗り込み大阪に向かうと、そこにはいつもと何も変わらない街並みとたくさんのサラリーマンが行き交い、百貨店で買い物をする人々の姿が・・・
なにこれ?・・・いや、これが当たり前なのか・・・
震災による悲惨な光景を間近で見た時よりも、なぜかそのギャップにはるかに強いショックを受けました。
片や日常、片や地獄・・・ほんのちょっとの場所やタイミングの違いでこれほど大きく人の運命が変わってしまう・・・そんな残酷な現実を象徴するような光景だったからなのかも知れません。
ちなみに、卒業試験は中止となり、わたしたちの学年は前年の12月にあった1回目の試験の成績が余程ひどくない限り、恩赦?で大学を卒業させていただきました。
しかし、その後に続く医師国家試験は、当たり前ですが特定の地域で起こった事情などには関係ありません。
住んでいた地域の困っている人達のところにボランティアにも行かずに、ぬくぬくと実家で今勉強するのがはたして正しいことなのか・・・悶々としながらなんとか試験を乗り越えたのを覚えています。
自分が被災者であっても、被災地から早々に離れるという選択をすることには、何か後ろめたい罪悪感のような複雑な感情が湧いてくるのだと思い知らされました。
あれから26年。
身近な人が亡くなったり、大きなダメージを直接受けたりしたわけではありませんが、心と体には「あの揺れ」の体験が深く刻まれています。
兵庫県で新型コロナウイルスの感染拡大に伴う政府の緊急事態宣言が発令される中で迎えるこの日には、例年以上に特別な感情が湧いてきます。
復興によりあの頃よりもはるかに過密都市となったこの地で、もしも今、同じような災害が起こってしまったとしたら・・・
悪い想像はしたくありませんが、天災もウイルスも人間の都合なんて考えてはくれません。
大きな災害が重ならないことを願うばかりです。
西宮市田中町5-2西宮駅前メディカルビル3F
「ひだ胃腸内視鏡クリニック」院長 樋田信幸の公式ブログ